沿革

変わらないのは、旅する人の好奇心と、
おもてなしの心

創業〜戦前

大阪商船と三井船舶の創立

商船三井クルーズのルーツは、100年以上前の大阪商船と三井船舶の創立に遡ります。この両社は昭和39年(1964)に合併し大阪商船三井船舶から現在の商船三井となりましたが、戦前戦後を通じて客船の運航を続けてきたのは主として大阪商船でした。

大阪商船は明治17年(1884)の創立後、国内営業を基盤に朝鮮半島、中国、台湾などの近海航路から始め、徐々に北米、欧州など遠洋航路に展開していきましたが、最も力を入れたのが南米航路で優秀な客船が次々に投入されました。
なかでも昭和14年(1939)竣工の「あるぜんちな丸」、「ぶら志゛る丸」の二隻は優美な外観と豪華な内装が評判になりました。
また、当時の船内プログラムには、
①出帆後のカクテルパーティー、
②夜は映画、ダンス、芝居、
③すき焼き、寿司、ビフテキ、バーの店を甲板上に出すガーデンパーティー、
④パナマ運河通航時にはデッキにテーブルを出して食事、
⑤プールに魚を入れ魚釣り大会、
等の記述が見られ、その頃から船の豪華さだけではなく船上での楽しさに力を入れていた事が分かります。

両船は第二次世界大戦により失われましたが、その名前と伝統は戦後の同名の客船に引き継がれていきます。

  • 大阪商船 ポスター
  • あるぜんちな丸の出港風景
  • ぶら志゛る丸(1939年竣工)パナマ運河
  • ぶら志゛る丸一等社交室
  • 初代あるぜんちな丸(1939年竣工)

戦後〜商船三井客船の設立

戦後の南米航路

第二次世界大戦により所有船舶と船員のほとんどを失った日本海運ですが、戦後の復興は目覚しいものがありました。昭和25年(1950)の定期航路民営還元後、大阪商船も直ちに南米航路を再開しています。

昭和29年(1954)に「ぶらじる丸」、昭和33年(1958)に「あるぜんちな丸」を就航させました。特に「あるぜんちな丸」は、当時の日本船としては豪華な内装で、今も船客ファンの語り草となっています。この南米航路は、日本からホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、パナマ運河、カリブ海を経てリオデジャネイロ、ブエノスアイレスなど南米諸港を結んでおり、南米への移住者が3等船客として大半を占めていました。
そのため俗に移民船と呼ばれていますが、1等、2等の船客にはアメリカへの旅行者や外国人も多かったのです。
ある船長によれば『世界中のどんな航路よりも壮大であり豪華であり変幻極まりない』ものであったと言います。

船内生活も現在のレジャークルーズと遜色のないものであったとも言われています。その楽しさに魅せられ『終身切符を買って』生涯乗り続けられたアメリカの退役軍人もいらっしゃいました。

商船三井客船の設立

大阪商船は昭和38年(1963)に当社の前身である日本移住船を設立し、南米航路の五隻の所有権を移管しました。これが当社の設立です。この頃になると南米への移住客が減少したため、昭和40年(1965)には3等を廃止しエコノミークラスキャビンを設ける改装を「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」に施して、より旅行者向けの設備にしました。そして昭和45年(1970)、社名を商船三井客船(現 商船三井クルーズ)に変更しました。

  • あるぜんちな丸船内(絵葉書より)
  • ぶらじる丸(1954年竣工)バールーム
  • ぶらじる丸(手前)と二代目あるぜんちな丸(奥)横浜港
  • 二代目あるぜんちな丸進水式(1958年竣工)のちの初代にっぽん丸

クルーズ黎明期

移住者輸送の終了とレジャークルーズ

商船三井客船は昭和45年(1970)当時、「さんとす丸」、「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」と、日本産業巡航見本市協会の所有船「さくら丸」の四隻で、南米航路と日本~香港~日本~北米間の二つの定期航路を営業していました。
しかし移住者の減少と航空機の発達による旅客の減少はその後も続き、遂に昭和47年(1972)南米航路から撤退しました。これに伴い「あるぜんちな丸」は純客船に改装されて「にっぽん丸」と名前を変え、「さんとす丸」、「ぶらじる丸」、「さくら丸」は売船されました。

当社は昭和47年(1972)から「にっぽん丸」(旧「あるぜんちな丸」)一隻でレジャークルーズ中心の運航を開始します。カリブ海で有名なカーニバル・クルーズラインの設立が1972年ですから、クルーズの専業者としては世界でも早いスタートといえます。そして当初からマニラ・香港クルーズや日本一周クルーズなど、現在同様のレジャークルーズを実施しています。
昭和48年(1973)には世界一周クルーズを行いました。これは定期航路客船としてではない、客船のクルーズとしては日本で初めての歴史的な世界一周です。
このクルーズの南米までの区間には、船での移住としては最後になった南米への移住者も乗船していたので、「最後の移住船」航海としても知られています。

青年の船

『青年の船』は明治百年を記念して、昭和42年(1967)から政府(総理府、現在の総務省)が主催し、当社の船をチャーターして実施している事業です。

青少年の健全育成と各国青年の親善交流を目的としていて、日本及び世界の青年が乗船し生活を共にしながら各国を訪問するもので現在も続いており、独身時代の秋篠宮妃殿下も参加されました。
『青年の船』のようなチャータークルーズではレジャークルーズとはまったく異なるサービスが提供されますが、船上生活の楽しさは団員の方達に深い印象として受け止めていただいており、国際親善への当社の貢献に対し感謝がよせられています。

  • さくら丸船内(1962年竣工)
  • 初代にっぽん丸(旧二代目あるぜんちな丸)

クルーズ元年〜日本型クルーズの確立へ

ふじ丸・にっぽん丸の就航

初代「にっぽん丸」は老朽化のため昭和51年(1976)惜しまれながら引退、その船名は二代目「にっぽん丸」(旧「セブンシーズ」)に引き継がれました。
また、昭和56年(1981)、巡航見本市協会から「新さくら丸」(以前の「さくら丸」とは別の船)を購入して純客船に改装し、「にっぽん丸」と合わせて二隻の客船で営業を続けますが、まだ当時は研修などのチャータークルーズを中心として運航していました。

昭和61年(1986)日本でも漸く高まりつつあったレジャークルーズの需要を受け、戦後初めてで最大の本格的クルーズ客船の建造を決定しました。この船が平成元年(1989)に就航し、マスコミに『クルーズ元年』という言葉を流行らせた「ふじ丸」です。続いて平成2年(1990)には、二代目「にっぽん丸」と交代に三代目「にっぽん丸」を建造し、日本のレジャークルーズへの流れを決定づけました。

商船三井クルーズ誕生へ

当社は戦前戦後を通じた外航定期客船の伝統、長い間の国際交流とレジャークルーズの経験の中から、それぞれの国の文化の重要性を学びました。

そして、令和5年(2023)8月に社名を商船三井クルーズへ変更、同年10月に新しいクルーズブランド名を「MITSUI OCEAN CRUISES」とし、シーボーンクルーズ社(米国)から購入したクルーズ船の名前を「MITSUI OCEAN FUJI」としました。令和6年(2024) 12月より、にっぽん丸と併せて二隻体制で運航いたします。 商船三井クルーズはゲストおひとりおひとりが幸せを感じる体験を提供し、日本発祥のウェルビーイングの実現に向けて前進してまいります。

  • 二代目にっぽん丸(旧セブンシーズ)
  • 三代目にっぽん丸(1990年竣工)は紀宮殿下(当時)の支綱切断により進水しました